昭和五十六年九月二十四日 朝の御理解
御理解 第三十四節 「ここへ参っても、神の言うとおりにする者は少ない。みな、 帰ってから自分のよいようにするので、おかげはなし。神の 言うことは道に落としてしまい、わが勝手にして、神を恨む ような者がある。神の一言は千両の金にもかえられぬ。あり がたく受けて帰れば、みやげは舟にも車にも積めぬ程の神徳 がある。心の内を改めることが第一なり。神に一心とは迷い のないことぞ。」
今朝方から私、こんなお夢を頂いた『丁度大水が入る前のように小さい小川がもういっぱいになって流れておる。そこに私の家内の姪にあたる早苗というのが居りますそれが小さいまあ四つ五つくらいな、それと若先生がまだ小さい時にその水の流れがだんだんこう早くて、小さい小川ですけれどいっぱいになっておるところで腰かけ着物のまま濡れながらもう、バチャバチャいわせち(させての意)喜びながらその遊んで居るところであった。それをそのお守りをしておる或る婦人の方がそこにたってじいっと見ておるわけなんです。』ね、まあ、合楽の信心はやっぱ黙って治めるというね、だんだん水が増してきよりますから、まあ、言うなら、危険でもあるわけです。 小さい小川ですけれども、だけではない、もういつまでもそこん中で水の中で遊びよると、それこそ風邪をひかせるような事があるかもしれん。いくら黙って治めろというても早う上へあげて着物でも着かえさせればよいのにというところであった。
皆さん合楽で言われる黙って治めるという事は、そういう時でも黙ってじいっと見とるだけでいいでしょうか。私はあの早苗という家内の姪ですけれどもが、そこに使われておるという事は、これは若先生だけじゃありません。そこには何人かの子供達が遊んでおるのですけれども、はっきりしておるのは若先生と早苗でしたけれども、只面白がってね、子供が水遊びしておるのですからね。けれども水遊びが病気の元になったり風邪をひく元になったり、水遊びが命を落とすようなね事になったりする。 それを例えば、それを守しておる人が黙って治めると、だからじいっとこうやって見ておるだけではもう危ないばい、もういい加減でよかばい、まあ、さあ早う上がって着物を着替えなければと言うのが本当じゃぁないでしょうかね。
これはここでいわゆる、成り行きを尊ぶとか黙って治めるとかという事には、一切実験実証してみるとね、ここんところを一言いうとかんといかんのじゃないだろうかここんところこのままではいかんのじゃぁないだろうか、いろいろとこういきあたるわからなくなるところがありますね。けれども人情でいうとね、そのそりゃ、ほっといていいですよという事も大変多いです。けれども、今のような場合にならこれを神情、人情でまあ考えるのではなく、まあね、早苗という事は、小さいまだ苗の事でしょう。早苗というのは早い苗と書いてある。
それを植えた。水がないから水をかけてやらにゃならん多すぎるなら引いてやらにあいけん。肥料もやらにあならん、育てて例えばそれが稲の早苗であるならば、八十八回も手を入れなければお米にぁならんといわれておるのですから、その手をいれるところを入れないで黙って治めるという事はちょっとおかしい、ね。子供はわからんのですよ、ね。面白いから只一生懸命水の中で遊んでおるのです。けど、そげなこつしょると必ず風邪をひかせる事になる。
風邪は万病の元というし又、ひょっとすると危険で水の流れがだんだん早くなってくるとそんなに大きな、小さい小川ですけども、なら子供小さい子供ですから、押し流されんとも限らない。そういう中には、早くさあもういい加減でよかろうばい、上がったなら着物ども着替えさせるというようなね、手が要るんじゃぁないかとこう思うんです。
神の言う事は道で落としてしまいと、私はその教えというのがよく皆さんが今日の教えは、もう私が一人で頂かなければならない御理解でしたと、今日は私が頂く御理解でしたと、例えばもし思う事があるならね、それはああた方をお守りしておる人がね、ああたに指摘してね、もういい加減で水から上がらなければいけないよ、危ないよと言われておると私は、思わなければいけないと思う。
只、聞いてね、只、私が頂かんならん、まあ神様は私にあてつけ言いなさったごたると言ったような時ですよね。それはなる程、まあ、私の流儀がまあ言わんで黙って治めるという域に徹底させて頂いておるのですからね、だから私のいいう例えば事、又こうして朝に夕に頂くなら御理解、これはある意味あいでは私の遺言だと思いますね。だから、今朝の御理解は親先生の遺言だと、しかも私や、そこんところをこう感じたというその感じたところをね、いつまっでん水の中に入って遊びよるような事をせずに、上がって着物でも着替えさせてもらうというものが各々にでけなければね神の言う事は落としてしまい、いわゆる聞き流してしまうという事になるのじゃぁないでしょうか。皆さんも黙って治めるという事のその内容の素晴らしい事なんです。 けれども、一つの稲なら稲を育てるのに早苗がそこにぽ-んと植えたというだけで放っておいてよいものでしょか、それは八十八回も手をかけねばならん、ね。可愛いからというてそれを可愛がりすぎますと、ね、かえって反対に枯らす事があります。 すぎるのではなくて、そこにね、早苗の場合、それをね、虫がついたら取ってもやろう、着物が濡れとるなら着物を脱ぎかえさせてやろう。ここは危険だと思うたら、ね、それこそいやと言うても怒ってでも、さあ川から上がってからせにぁこて危ないというてするのが本当ではないか。今朝そんなふうにお夢を頂いてですね、こりゃ、私もちいったいわにゃん、なら、私は言わんですむと言うとっても、言わずにすむような事ばっかりかと言うとそうじゃぁないです。もう本当に目に余る本当にここは、言うとかなきぁというような時があるです。けれども、そりゃ、黙って治めるに徹しておるから申しませんけれども、せめて、なら、私のこうやって皆さんに聞いて下さるお話の中に、今日は私が頂かならん、この事は家、一家で頂かならん家の者が全部ここん所は頂かにゃいけんというふうに感じて今日の御理解は、家一家で聞きたいような御理解であった。今日の御理解は私一人で頂く御理解であった
今日の御理解は親先生が私にあてつけち言わっしゃったつじゃぁなかちゃろかと思うように、まあ強く感じた時にはです、親がもう危ないぞと、もういい加減遊んだら上に上がって着物を着替えなきゃいけないよと、言われておると思うて皆さんが、しかもこれは、親先生の遺言だというふうな頂き方したら、神の言う事が聞けるのじゃぁないでしょうか、ね。道で落とすような事がない。そのまあ頂く手立てとしてね、そういうふうな思い方。川ん中でいつまでもね、もう実際は上がらにゃいかん、上がにゃいかんと言いながらも、思いながら上がらんでおるような事もあるかもしれません。お守をする人が黙って見ておるからというて、よか気になっていつまでもね、川遊びをしよるとね、火遊びが火事の元になるようにね、水遊びが命落とす元にもなりかねないのですからね。
どうぞ。